おまるこベシャメルそーすはトロリとしたスーパーデリシャスなミラクルテイスト。これを一振りすればどんなメニューも120%アップします。こんなにおいしくなって僕たちは大満足。それぞれの素材を引き立てて、月面ディナーが始まるのです。そこから地球を見下ろせばどんなにそれが尊いことか理解ができます。あの青い星で育った美味なるものを光速1.3秒の世界で食することのできる幸せを心から感謝したいと思います。
001
25歳の時、アンリ・ルソー絵画の熱病におかされた。圧倒的な密林、空を覆う架空の樹木が日々自分の頭の中を埋め尽くしていた。近くの植物園に通い、嗅覚による刺激を受け続けていた。紛れもない最後の楽園がそこにあった。延々と続く等身大の劇場が広がる。個性は根絶やしにされた感じだった。そこで何かが終わった。もう戻れないと痛感していた。25歳、明らかにあの時何かが終わった。同化すれば模倣となるだけで、幻想とはけして手に入らないものであると知った。高校時代、B1ケント三枚に群像を描いた事がある。一体が140cmくらいに相当する人物(行ったこともないモロッコの市場をイメージしたのだと思う)の数々を描きこんだ壁画である。空間を作ってゆく高揚感はあの時味わったものの影響が大きいのかもしれない。等身大で入っていける空間に未だ憧れている。コミックスをA1サイズで描き、背景は自分が実際に撮影したロケーションしか使わないのも、その影響が大きい。壁に貼られた自分が欲する空間に囲まれている幸福感はたとえようのないものがある。三次元空間を二次元人工物で覆うことで出現するスリルのようなものがあるのだ。時代が進み、グラフィティやCGにも興味を持ったが、やはりアナログで黒い描線や面で元の画面を作っておくのが好きなようだ。白い紙に書かれた黒い線や面に囲まれていると落ち着く。終わりはないにしても、今の時点で納得のいく段階まで詰めたものであれば、この上ない安心感に満たされるのである。26歳に広告会社を退職してから、ある意味ずっと夏休みは続いている。川の中洲に暮らすようなものにあこがれ続けてきた。そこが自分にとって最後の楽園なのかも知れない。
002
「競うこと」とは。社会形成された以降の自己と他者を客観視した結果であると言える。二次創造において「競うこと」の効果は人類の歴史の中で絶大であったと言える。例えば航空史が全くそれに当たるものであるように、ライバルの存在が間接的に技術革新につながる場合もある。では発想の発端たるいわゆる一次創造においてはどうであろうか。これは社会形成以前の単独狩猟時代の感覚に近い。マンモスを生きる糧として捕獲するために、狩猟道具や仕掛け罠を発案するパイオニア精神は個人の意識の中の試作アルゴリズムが主をなしていた。今日社会構造の中、ノルマ的にその発想を強いられる場合もあるだろうが、根源的構造は変わらずまったくの単純なものと考えられる。個人が純粋に必要に迫られるかどうかということだ。科学・思想・芸術・発明・学問においてそれは全くの別物と考えてよい。「勝つ」ことより「発見」や「達成」が重要だからである。それが公共の利益となるまでは己のモノサシのみを頼りに掘り進めなければならない地味な作業なのである。間違えて困るのはこれをなしうる個人とは「競うこと」の苦しみに匹敵するほどの孤独や自律謙虚がなしえるものに限るということである。競うことで薄れていくものがある。オリジナリティの存在がそれに当たる。汎用性を重視すればそれは無用である。しかしここに矛盾があるとすれば独創性こそが文化を高めてきた。リミックス・カルチャーからは到底派生することのない遺伝子である。真の創造などあり得ないことはある程度それを強く意識すれば分かる。しかしそれに対して可能な限りのあらゆる手段を用いて到達しようと考え・行動し・努力する者はすでに創造者の姿である。「答えが無いかも知れないものに対して、一生を棒に振るかもしれない覚悟」、これを受け入れるか否かがどうもボーダーラインのようである。
003
多くの意味で1969年は転換期であったのかも知れない。アメリカの抱く欝血した苦悩を若者たちがさまざまな形で体験せざるをえなかった頃。今の私達はそれをカビ臭いにおいのする報道写真図鑑などでしか体験することはできないが、明らかに存在した紛れもない事実がそこにある。そのころティーンエイジの真っただ中にあった世代はもう60歳前後になる。忘れてしまいたいほど切なく、しかしそんなことができるはずもないほど強烈は印象を封印した時代であったことは後の文献やおおくの人の証言で察しはつく。そんな空気感が1975年位まで続くのだろう。ロックはカタルシスとして存在し、はっきりとした目的や目標を持たずに迷走を続けなければならない辛さはいつの時代の若者の多くが抱く葛藤なのだと思う。ベトナム戦争が大きな象徴であったように思う。今ほど世紀や戦術が圧倒的でないアメリカにとって、それを正義と欺き続けるには、重い代償を払い続けなければならない出口のない迷路のようなものだったに違いない。「チェックアウトはできても、ここを立ち去ることはできない」ホテルC最後の一節である。時間に浄化を求めることをいいこととは思わない。根源的な解決を埋もれさせる時間でしかない。それでもそれによってしか、癒しようのないことが多く存在する。78年以降反抗は社会に向けられ、80年からファッションでしかなくなる。いいことも、悪いことも二度と帰らないことと理解するしかないのだろうか。やがてこんなことさえ考えなくなるのだろうか。70年代、泥水の水たまりと轍にはどんな空が映っていたのだろう。それがどんな色をしていたとしてもじっと見つめていたい、今の自分は強くそう思っている。
004
Pリスという1970年代末期にデビューしたバンドが今でも好きだ。細かいことは別のレビューに任せるとして、全5枚のアルバムはどれも秀逸な出来である。4月から5月にかけて個人的にしっくりくるのはやはり3枚目の「Z・M」だろう。レゲエでゆる系パンクサウンドは18歳から19歳にかけての専門学校時代を思い返させる。無知である。それゆえの無垢なことだけが価値のような時代であった。それでも幸せだったと思う。これから訪れる己の業など知る由もないのである。ただ5月のそよ風の中にいたような気がする。高校時代をかなり地味に過ごしたので、19歳とは未だ永遠のようにも思える。石膏デッサン、ポスターカラー、それから人形制作。38歳になった自分はじっとしていても到達出来たのかも知れないが、その道程にそこそこ色々やってきたように思う。今コミックスを描き始めた。初志だったようにも思う。32歳の時に写真をトレスするものを描いたが人物の創作の壁にぶつかった。悶々と6年近くも悩み今春、やっと人物自作のコミックスに到達の糸口を見いだせたようにも思う。27歳の東京遠征、「DDDDE・AAA!」というフレーズに似ている。人の評価は大切である。しかしそれ以前に、物事を自分の意思でやり遂げられるかという切実な問題が横たわっている。初歩的なハードルに見えても、これが貫ければたいがいの要求には耐えられるということの体感した。時間がかかった。自分になるまで遠回りをして、確認するように凝視しつづけた。今はこれといってPリスは聞かない。個人的にはBストンの三枚なども同じふうにカテゴライズしている。ハードディスク内のデータをCDRにやいておこうか。たまに聞くといいものである。記憶を上塗りして、たくさんの新しい情報が蓄積してゆく。そんなに新しいもの好きなわけではないが、それでも自然とたまる。いつの時代も新鮮にそれらを受け入れてるつもりでも、それ以前という言葉がついて回る。年齢が加算されてゆく。そうあるべきという気持ちと、まだそうありたくないという心が不自然に一致する。一人である。今4枚目の「Gスト・インザ・マシーン」に移行した。青春は何度でも訪れると初老の男たちは言う。同じ気持ちである。伊藤若冲や葛飾北斎は長寿であったらしい。曽我蕭白は享年55歳、当時としてはやや長い方であろう。自分は肉体的にいつまで描けるだろう。メンタルで描けないないなら逆に諦めがつく。しかし創意を宿したまま、果てるのだけは朽ち惜しい。音楽がだめだった分、描きたい。立体ではなく平面のパフォーマンス。780x520のサイズでコミックスを書いている。貫く力を自分に示したいのだ。自分が作り上げたものを自分が見たい。そこに初期衝動がある。他の作家が描いたコミックスにはもうあまり興味がない。一部のアメリカンコミックスの作家の作品を技術的に学ぶために購入する程度で、メインストリームの動向には一切興味がないというのが本音である。どこまで行くのだろう。作品が完成する喜びと、孤独から解放される喜びの選択を迫られたら一体どっちを選ぶのだろう。嘘のない心が欲しい。自分にとってはどちらも大切。37歳が過ぎ去った。人生の第2部までが終わったように思える。まともに遂行できるのは良くて4部まで。三部も蓄積してきたものの余力による支援が大きくなるだろう。でももう振り返ることはしない。すべてを利用してでも成し遂げなければならないステージになってきた。。まだまだ体は動く。描けるだけ描こう。新しい音楽を聴き、描けるだけ描こうと思う。
005
5月もGWを過ぎると空が湿り気を帯び始める。個人的には沢山のチャンスに沢山のことをやったような気がする。高校一年、初めての原付バイク、二年では茶色一色のB1の絵を描いていた。専門学校1年のデッサン室の心地よい緊張感、21歳の就職1年目は初めての編集後記に一文に陶酔感を覚えた。24歳のルソーの楽園への傾倒、25・26と会社の窓から外ばかり見ていたのもこの頃だった。27、つかのまの自由、絵本作家になりたくて初めて東京の出版社に行ったのもこの頃なのに、梅雨空の写真ばかり撮っていたような気がする。全てを忘れたくない。ずっとこのままでいたい気持ち、変わってゆきたい気持ち沢山ある。Yプーズの「Hステリア」という曲がまず脳裏をよぎる。がんじがらめの傍らをサラサラと流れるものがある、僕はそれをずっと見ていたいと思う。
006
春になる。桜が咲く寸前くらいが一番きれいだ。ここ10年くらい、往年の巨匠が奏でたジャズを後追いで聴いている。ロックやテクノを聞いて育った世代には、歯がゆさや恥ずかしさも感じられるが、聞きなれてしまうと、彼らが何を言いたかったかが、ジャンルや手法ではない一人の人間のメッセージとして聞こえてくるようにも思えてくる。ピアノがいい。スイングするよりはビバップしていてほしい。自由な創作をバッハがしたら、はたして出来ただろうか。天才だからできたはず。一人のクリエイターの一つの結論がそこにあったはず。無頼派の作家N上健次氏が賛美したジャズ。彼もまた肉体労働をすること、執筆することによってそのリズムと感性を同じところに置いた一人なのであろう。春の熊野はどうであろう。これからまた一つの夏がやってくる。自分がかつて経験した夏、15歳の受験の夏は一人きりでとても自由だった。19歳の夏は特別なもの、24歳の夏はやはり一番熱かったように覚えてる。そこからマンネリのようで様々な夏が来た。それは全て春の仕業だ。春によってその後のことは全て運命付けられてしまう気がする。27歳の東京は初夏。世紀末の空気に晒されて青臭い雰囲気の中にあったように思う。自由を享受している。つかみ取ったわけではない。多くの昔の人が命をかけてつかみ取った物を自動的に頂いている。それでも自由でいいらしい。ならばその中で何ができるかと考えてみる。もちろん何もしないという選択種もある。青い雲と白い雲は7月のステータスのようなもの。天命に気づける人間はごくまれである。それは特に義務ではないので知らずに一生を過ごしたところで何の問題もないのだけれど。色々なものが私の人生を通過してゆく、いや相対的にいえば個人がカテゴリーの中を泳いでいるものなのかも知れない。どこまでゆけるのだろう。季節の風よりは遅い速度で色々なものを見てゆきたいと思うのだ。
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意志の疎通とは一体何だろう。社会を形成する動物はそれが複雑・単純にかかわらず、自分という個体の行動理由を他に伝えることからそれは始まったと言えるだろう。蟻の触覚運動から始まり、人間の諧ぎゃぐさえも含む音声言語に至るそれらの根本目的は社会構造という特性上不可欠な問題であると言える。
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日々を逆算して生きること、これは打算的と言われようとも社会的に真っ当なアルゴリズムであると言えるのである。自分の考えうる計画を後ろから考えて今何をなすべきか方法を考えるのである。アナーキズムというものはこれとは全く反対側の考えを言うものであり、両者は思考上交わるものではない。しかし、本来人間が持つモチベーションという領域でこれらを考えた場合どうだろうか。終わりを設定して今を充実させることが果たしてできるだろうか。疑問と言うより懐疑に近い感覚がする。この時代、確実に近いものはことごとく消えうせてしまった。そもそもそれ存在自体が古来からの幻想であってそんなものははじめからなかったしても、今となっては完全に消失されてしまったと言えるであろう。打算的に振舞えというのではなく、算段を明確にすることで、本来見えるべき可能性をスルーしてしまう恐れを感じずにはいられないということである。墓碑銘のために尽くすことは誠実であろうか。明日の夕日を見ずには眠れそうにない。そんな気持ちを覚えているだろうか。
009
厭世感が強まる。繰り返される泥濘に吐露する気力すら当分は持てない気持ちでいっぱいである。人間は好きであった。かつては信じていく気力に満ち溢れていた。小さ嘘をつきつつも、他者の小さな嘘を受け入れる許容が存在していたと言っていいだろう。今は違う。それを行使することを非難はしない。ただそれに自らを併合させてゆくことにつかれてしまった。すべての人間いや、生物は自らを守らなければならない。コミュニケーションが単に攻撃の手段でしかない時、世を嫌って当然であろう。
010
月の裏側にあるクレーターを我々は未だ肉眼で目視することができない。それはあたかも的の中心を射抜いて的の全てを知ることに似ているのかも知れない。無論、的の一点を射抜いたところで的の全てを知ることなどできない。本来どんなフロンティアスピリットに突き動かされて偉大な発見をしたとしてもそれは、物事の序章にしかすぎないのである。それがどんなに尊いモノであっても発見後の研究が大切なのである。その氷山の一角を知ってしまったばかりに、それに追随する多くの犠牲にも似た人々の労力を知らなければならないのだ。この快挙にはじめは多くの人が傾倒するであろう。しかしそれは一過性のものでしかない。時間ととともに記憶にさえ残らなくなってしまうのだ。それを意識に決定させるのが研究であると言える。この途方もない労力こそが物事を冷静に分析し正確な判断を下すための必須条件であると言える。けしてそれらを擁護するつもりはない。本来残そうとする発見など本末転倒なのである。その研究が国家プロジェクトとなるなど以ての他である。資金的には個人や企業での出資に限界があるのも事実だが、その社会主義的構造の中では研究者たちは慢心し、やがて傲慢な態度をとるようになる。挙句の果てには、行動自体が怠惰にさえなる事例も少なくはない。
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